春駒お母さんとの対談【2015年9月】
銀座のゲイボーイのはじまりと伝説のお店。
矢部慎太郎(以下慎太郎)こちらは、カルーセル麻紀さんと同期で「ゲイボーイの元祖」って呼ばれてらっしゃる春駒お母さんです。
春駒(以下、お母さん)
いやだわ、元祖じゃないわよ。昭和24年、「やなぎ」のお母さんが日本で初めてゲイバーを開きまして、その「やなぎ」さんでボーイさんをしてらしたのが「青江」のお母さん。そして、「青江」のお母さんが私とカルーセル麻紀の育ての親なのよ。
慎太郎
「青江」のお母さんはお亡くなりになったけれど、そのライバルは現役なんですよね。
お母さんライバルっていうのが、現存してらっしゃる「吉野」のお母さん。「やなぎ」「青江」「吉野」が銀座の3大勢力だったんだけど、もともとゲイボーイっていうのは女装しないで普通の男の子の格好してたの。
慎太郎だから、私みたいなのは当時いなかったんですね。
お母さんそうよ。きっかけは「やなぎ」のママ。芸者に「なにがゲイボーイよ、芸もないくせに」って言われて、“芸者ごときに負けてたまるか!”って團十郎さんとか、先代の勘三郎さんに師事して、お茶から踊りから全部習って、日本髪を結って新橋に乗り込んで行ったのが最初。
慎太郎すごい意地ですね…。それはいつ頃のお話でしょうか?
お母さん私が「青江」に入る少し前だから、昭和30年代でしょう。私はね、昭和35年にデビューしたとき、18年前の午年の春に生まれた子だからってことで、「青江」のお母さんに春駒って名前をいただいたの。
慎太郎55年前!お母さん、今年デビュー55周年なんですね。お祝いしなくちゃいけませんね!
お母さん「青江」のお母さんの店は並木通りにあったんですけど、昔、名画座で「並木座」っていうのがあったのよ。あそこの前の路地を入った、ちっちゃい汚い路地の1階が煮込み屋さんで、その2階がお店。だから煮込みの匂いがプンプンしてる中で、ゲイボーイが歌ったり踊ったりしゃべったり、たまには……ピーですけど(笑)。もうそんな時代でしたから、本当に55年前の銀座っていったらね、ほら時代劇に出てくるような木で出来た、フタがパッタンって閉まるゴミ箱なんか知らないでしょ?あれが普通に並木通りにあったのよ。
慎太郎春駒お母さん、その頃まだ10代だったんですよね?
お母さん昼間は学校に行って、夜は「青江」でアルバイトよ。試験の前の晩、さすがに今夜は飲んじゃダメだわと思って、水割りぐらいは少しは飲むけど、自分の中で意識して何気なくお酒を控えてね。お客さまに「おい春駒、飲めよ」っていわれたとき、つい「結構です」って言っちゃったのよ。そしたらお母さんに聞こえちゃって、「ちょいと春駒さん何よ。おまえさん、お客さんが飲めっていったのに断ったんだって?」って言うなり手が飛んできて殴られてね。お母さん、大正生まれで大学柔道部出身のエリートで、戦争に行って新兵を殴るの慣れてるから、ベシーッって殴られるのよ。こんな大きな手で。
慎太郎怖いわ!(笑) 本当に恐ろしい〜!
お母さんそれで飲むわけよ。で、次の日に試験会場へ行ったら「誰かお酒くさい人がいます!」っていわれてね。顔も腫れてるんだけど試験受けて、夜またお店に顔を出すんですけど、「すみませんお母さん、昨日ちょっと粗相しまして顔が腫れてますので今日お休みしていいでしょうか?」って聞いたらね、何ていったと思う?「片っぽの目が赤くなったんだって? フッフッフッフ……もうひとつの目もそうしてやろうか!」だって。
慎太郎恐ろしい…。
お母さんでも私、殴られたのはね、そのとき1回だけなのよ。すっとこどっこいのオカマは毎日殴られてたけど。それでね、「青江」のお母さんが本を出したんですよ。そのタイトルが『地獄へ行こか 青江へ行こうか』(笑)
慎太郎面白いです!
お母さんお母さんは厳しかったけど優しかったわよ。「学校へ行きなさい。本を読みなさい。これからは必ず日本もね、英語が役に立つから英語を勉強しなさい。新聞を読みなさい。広く浅く、何でも知っておかなきゃダメよ!」って。
慎太郎それがいま役に立ってるんですものね。大事なんですよね、勉強は。